雑念を書く、の巻
今日の雑念
先日、Twitterで見かけた風刺的イラストでこういうのがありました。
街中の屋台で悪魔が
「殺してあげるよ!」
と商売をしている。屋台の前には死にたいと呟きながら歩いている人々がたくさんいる。でも誰もその悪魔に殺してくれて申し出ず、結局悪魔はなんだい!みんな死なないんかい!と帰ってしまう。
というお話でした。
私は、寂しく思いました。
このお話にではなく、こういうお話に同意する人がたくさんいる事実に、寂しく思いました。
人が話す時、基本的には感情的な話をしているかそうでないかの2つだと思っています。
「死にたい」
「本当に死にたいという人は静かに黙って死ぬし、構って欲しいだけで死ぬ気はないんでしょう?本当に死にたくないのに死にたいっていうのよくないと思う」
この会話がそれです。
死にたいというのは感情の次元のお話です。
ただ、それに対する本当に死にたいなら〜というのは、感情の次元ではないのです。理性的な、論理的な話です。
それを一緒にするのは、論点が違うというか、次元が違うのではと思います。
誰だって死にたいときはあるのです。辛いことが重なったり、忙しくて心の余裕がなかったり、打撃の大きい出来事があったり、人生には辛くなる機会がたくさんあります。そういうとき、「死にたい」と言ってしまうのは仕方ないことだと思うのです。
そういうとき、よしよし辛いねと、なでなでしてあげることくらいしてもいいのではと思います。
世界からしたら、一個人はあまりにも小さいです。
寝ているときは世界が見えない、前を見たら後ろの世界は見えない、知らないことに思考を巡らすことはできない、寿命が尽きるまでに知れることには限りがある。
世界には見えない部分、理解できない部分が大半です。
世界には何十億人もの人間がいるのですから、到底理解できないような考えを持っている人がいてもおかしくありません。
相手のことを全部わかってあげれないのに、どうして相手の感情的な発言を否定してしまうの、と思うのです。
相手を理解することは、相手の経験したものを知るだけでは足りないです。
相手と同じ経験を同じ時間することが必要だと思っています。
辛い経験があったとして、本人はその経験についてずーーーーっと悩んで考えていたかもしれない。
何度も同じことを考えてしまったり、あるときはずれた考え方をしたり、あとでそれを間違いだと思い修正したり
そういう時間を共有してあげないと、本当に理解してあげたとは言えないのではと思っています。
世界は見えない部分がほとんどで、そこの可能性を理解した上で、優しく接することができたら、もっと優しい世界になるのになぁと思います。
でもきっと、私が上のような発言をする人を理解してあげられていないから、こういうことを考えてしまうのかな。とも思い。それはきっとみんな、お互い、なのかなとか。
理解しあえないことに、寂しく思いました。
辛い人全員に、よしよし辛かったよねたくさん考えたねなでなでしてあげるね〜と言ってあげたいです。
駄文失礼いたしました。
(これだけだと聖母みたいですが、くそみたいな部分もありますのでこれからそういう部分も出していきたいです)
まる。